2月2日(日本時間では2月3日)にニューヨーク(厳密にはニューヨーク州マンハッタンからハドソン川を挟んだニュージャージー州に在るメットライフ・スタジアム)で開催される第48回スーパーボウルの対戦カードが、デンバー・ブロンコス対シアトル・シーホークスに決まりました。
ANDSOCRE!創刊号でインタビューに応じてくれたデンバー・ブロンコス・チアリーダーの西村樹里さんは、スーパーボウルの大舞台で踊ります。
アメリカ国内での視聴率は50%近くを記録するスーパーボウルはアメリカの国民的イベントで、スーパーボウルの前後にはアメリカ中の話題がスーパーボウル一色に染まります。世界200ヶ国以上で生中継されるスーパーボウルは世界で最も多く視聴される番組で、そのブランド価値はオリンピックやサッカーのワールドカップをも凌駕する世界最高峰のイベントです。
そんな世界的規模の大イベントで踊る日本人NFLチアは、2003年の第37回大会に出場した中野よしえさん(オークランド・レイダース)以来、西村さんが史上二人目。日本人チア初となるスーパーボウル優勝を目指して、ブロンコスをサイドラインから盛り上げることでしょう。
ANDSOCRE!では西村さんのスーパーボウル出場を記念して、創刊号の特集ページでは載せられなかった独占特別インタビューの完全版をウェブでお届けします。
西村さんとのインタビューは1時間半にも及び、全部で1万5千文字のロング・インタビューですので、スーパーボウルまでに5回シリーズでNFLチアの素顔を覗いていきます。
1回目は西村さんがNFLのチアに挑戦するまでのバックグラウンドをお聞きしました。
―― 中学でチアに出会ったそうですが、小学生のときはダンスをしていなかったのですか?
小学校4年生くらいのときに、半年だけ器械体操をやっていたのですが、受験のために辞めてしまい、小学校高学年はずっと塾に通っていました。一つ上の姉が中学に入ってダンスを始めたの見て、私もダンスをやってみたいなと思いました。姉が通っている学校のバトントワリングをやりたかったんです。見た目も華やかで可愛かったので。ダンスを始めるために、その前のステップとしてバレーなどをやったことはないですね。
―― 中学はお姉さんと同じ学校に?
それが……中学受験を失敗してしまって、第一志望の学校に入れずに、受かった第二志望の学校にダンスドリル部と言う学校の名前が入ったユニフォームを着て、ポンポンを持って踊るチームがありました。それまでにダンスの経験もなかったのに、これならば私のやりたかったバトンと似ているのでやってみようかなと、興味本位で始めました。あと、新入生歓迎会で先輩たちが踊るのを見ていて、見ているこちらの方が楽しくなってきて……。中学に入って新しいスタートを切るのに、先輩たちも楽しそうだし、見ているこちらも楽しかったので、私もそういう人になれたらいいなと思って、勢いで始めました。
―― 中、高時代はどんな学生でしたか?
中学校1、2年のときは部活のためだけに学校へ行っているような感じで、あんまり勉強もちゃんとやらなくって、学校の先生からも「お前は部活を頑張っているのは分かるけど、もうちょっと勉強も頑張らないと本当に危ないから」と言われるような子でした。中学校3年生のときに部活のキャプテンに選ばれ、顧問の先生に「勉強はできないキャプテンはいらないから」と言われ、「皆からキャプテンに指名されたけれど、責任を持ってやるためには、勉強もちゃんとやりなさい」と忠告されました。そのときにキャプテンは皆をまとめたり、皆が目標とする存在なのに、部活だけに命を掛けている子では誰も付いてこないなと思って、ちゃんと勉強も頑張ろうと思ってやりました。高校もその経験があったので、ある程度の成績は取って、大学受験も自分が行きたいと思った大学に推薦の規定を満たす成績があったので、それで受験して大学も入れました。
―― 中、高はチアの強い学校だったのですか?
私がいた時代は凄く強い学校ではなく、規模も今よりも小さかったので、大会の決勝に行けるか行けないかを彷徨っていたようなチームでした。
―― 玉川大学のチア部「ジュリアス」は世界レベルのチームとして知られていますが、玉川大を選んだのはジュリアスの存在があったからですか?
中学校3年生で大会に行ったときに、玉川大学のジュリアスのパフォーマンスを見て、凄く格好いいと思って……。全てが素敵で、パフォーマンスも凄く素敵だったけど、大会ですれ違ったら挨拶してくれたりだとか、気軽に話しかけてくれたりとか、それが凄く嬉しくって……。私もダンスを続けるならば、このチームに入りたいなと思って、高校生のときに大学でもチアを続けたいと思ったので、玉川に行きたいと決めました。
Photography by Kiyoshi Mio
―― アメリカに初めて来られたのは?
高校2年生の夏休みのときに、サンディエゴへ2週間のホームステイに来たのが初めてです。ホームステイ先のお父さんに「君は大きくなったら何になりたいの?」と聞かれたときに答えるものがなかったのですが、ちょうどその頃に日本人でNFLチアリーダーを目指している方のドキュメンタリー番組を見て、アメリカってこんなのがあるんだと思ったのを思い出して、「NFLのチアリーダーになりたい」とポロッと言ったら、チャージャースのゲームに連れて行ってあげるよと言われて、試合に連れて行ってもらいました。アメフトのルールも分かりませんし、英語もできないので難しい会話もできなかったし、席も本当にすごく上の方だったのですが、スタジアムが満員で、チアリーダーの人たちも格好いいパフォーマンスをしていて……。そのときは高校生だったのでアメリカって凄いなと思いました。規模も大きいし、チアリーダーが登場すると、皆がとても大きな歓声を出すので、アメリカのチアリーダーは地域の人たちにとってアイドル的存在なんだと思いましたね。その番組を見てNFLチアの存在を知って、アメリカに興味を持ち、サンディエゴにも行きましたし、漠然とですがダンスももっと上手になりたいなと思いました。
―― 大学では何度もアメリカの大会に出ていますよね。
大学が凄く強いチームだったので、アメリカの大会に出る推薦を貰えたので、アメリカの大会と、夏休みにはアメリカの大学で行われるダンスキャンプに、大学2、3、4年生のときに参加しました。
―― 高校で漠然とした目標だったNFLチアが、具体的に目標に変わったのはいつ頃?
大学3年の終わりくらいから就職活動をしているときに、大学4年間まで競技をやれば、自分でダンスから離れるだろうなと思ったんですね。でも、きっとどこかでダンスを続けたいという気持ちもあったのですが、どうやって続けていけられるかが分からなくって……。就職活動がうまく行かなくって悩んでいるときに、母から「アメリカ挑戦しなくっていいの?」と聞かれて、そんな選択肢があったのと驚きました。でも、それには条件があって、アメリカのダンスキャンプには参加者の中から何人かだけが選ばれるオールアメリカンという賞があるのですが、大学3年生のときにその賞を貰っていて……。母からは「もし2年続けてオールアメリカンに選ばれたら、アメリカに行くことを考えてもいいよ」と言われて、大学4年のときに最後のキャンプだから、アメリカに挑戦する、しないは関係なく、オールアメリカンを取れたら、自分の自信にもなるかなと思っていたら、オールアメリカンを取ることができて、母親からのアメリカ行きの資格も満たしので、アメリカ挑戦を考え始めました。でも、就職活動は続けて、ダメだったときにアメリカへ挑戦しようかなと思っていたら、就職活動がうまくいかずに……。そのときに私が思ったのは、アメリカまで挑戦しに行ったら、その結果に対して、受かればダンスを続けていいという意味だし、ダメならば自分の中でも諦めが着くだろうなと思い、自分の将来の方向性を確かめるために受けにいったという感じです。
文、インタビュー、写真:三尾圭
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